田中城って、どんな城
高島市安曇川町大字田中字上寺にあります。別名・上寺城とも言います。鎌倉時代後期(1330年頃)、高島七頭の一派、佐々木田中氏綱により築城されたものと推定されます。
『信長公記』には、元亀元年(1570)4月に信長軍が田中城に逗留した事が記載されています。また、公家の日記等の資料から、以下のことが推定されます。
元亀元年4月20日、織田信長の軍勢(約3万)は越前の朝倉義景攻略のため、京都を出発しました。この軍には、木下籐吉郎(後の豊臣秀吉),徳川家康、明智光秀、松永久秀、池田勝正等が従軍し、飛鳥井雅敦、日野輝資といった公家も同行しています。
その日は和邇に一泊、21日に田中城に一泊、22日に熊川(現福井県遠敷郡上中町)に一泊、23日に佐柿(現三方郡三方町)に一泊、25日には朝倉氏の支城天筒山城(現福井県敦賀市)を攻略、26日には、金ヶ崎城(現福井県敦賀市)を攻略、27日には、浅井長政が裏切りの情報を得たため、28日夜に退陣開始、30日夜11時頃に京都へ逃げ帰りました。
元亀4年(1573)浅井長政の勢力下にあった田中城は、信長によって攻略され、その後は明智光秀の支配をうけて終焉をむかえます
後に豊臣〜徳川と仕えて関ヶ原合戦でも活躍した田中吉政(1548-1609)は、この田中氏の流れを汲んでいたとされています。
『寛政重修諸家譜』(かんせいちょうしゅうしょかふ:18世紀末から19世紀初頭にかけて江戸幕府が編纂した大名・旗本の系譜集)では、橘氏の末裔に田中氏をあげ、「筑後守忠政がとき嗣なくして家絶ゆ。庶流田中久兵衛政諧が家伝に、先祖近江国高島郡田中村に住し、伯耆守嵩弘がときより田中を称号す、其男重政なりといふ」と説明している。また、『藩翰譜』(新井白石編纂による)では、吉政の父の名を宗弘とし、「兵部少輔橘長政は伯耆介宗弘が男なり。本国は近江の人、先祖累代、高島郡田中と云ふ所にぞ住してける」となっています。
また、鈴木真年編による『古代氏族系譜集成」所収田中氏系図をみれば、遠祖は橘朝臣仲遠とあり、民部大輔親信の子重信が近江国高島郡田中を領して田中を称したとされ、兵部少輔吉政の父は実氏となっている。いずれが正しいのかは、判断し難いのですが近江国高島郡田中村から出てきたことは間違いないようです。
ただ、出自については、虎姫町の出身という説があります。2005年に発行された『秀吉を支えた武将田中吉政
近畿・東海と九州をつなぐ戦国史』(市立長浜城歴史博物館)では、田中吉政は、虎姫町三川の生まれであるとなっています。
戦国の武将、田中吉政は、吉政の子(田中忠政)の代で無嗣断絶となってしまったため有名ではありませんが、近江八幡城主が豊臣秀次であった時(天正13年:1585年)には、山内一豊とともに家老であり、田中吉政は、筆頭家老でありました。この時の家老としては、中村一氏・堀尾吉晴・山内一豊・一柳直末らがいます。
関ヶ原の合戦では、合戦終了後、伊吹山を逃亡中の石田三成を捕縛し、徳川家康の待つ大津城へ搬送しました。最後は、山内一豊が土佐25万石であったのに対し、田中吉政は、筑後国柳川藩32万石を与えられ、本来なら、山内一豊よりも有名となるべき人物です。
近江八幡城家老一覧
家老名 |
出身地 |
生年 |
没年 |
享年 |
領地 |
死因 |
田中吉政 |
滋賀県高島市安曇川町 |
1548 |
1609 |
63 |
筑後国柳川藩32万石 |
京都伏見で病没 |
中村一氏 |
滋賀県甲賀市 |
不明 |
1600 |
不明 |
駿河国駿府14万石 |
病没 |
堀尾吉晴 |
愛知県丹羽郡大口町豊田 |
1544 |
1611 |
67 |
出雲国松江城24万石 |
松江城にて病没 |
山内一豊 |
愛知県一宮市木曽川町黒田 |
1545? |
1605 |
60 |
土佐国高知城25万石 |
高知城にて病没 |
一柳直末 |
岐阜県岐阜市西野町 |
1546 |
1590 |
44 |
美濃国軽海西城6万石 |
戦死 |
登城口は、上寺バス停付近からです。バス停に大きな「田中城跡」という看板が立っています。バス停から少し民家の間の道を通り、案内板に従い登ると、すぐに山裾に辿り着き、そこに立派な城跡碑が建っています。
台地の先端とはいっても、比高は約60m。思ったほどの高低差はないのですが、丁寧に随所に設置されている案内板に従い城域内を歩きまわると、数々の土塁や堀切や竪堀、更には武者隠し、土橋などが確認できます。
天守台跡手前の曲輪には、田中城築城前にこの地に立っていたとされる廃寺・松蓋寺跡に観音堂が建っています。
その後西側の断崖に対して土塁の残る尾根伝いに天守台跡へ登ると、眼下には安曇川の街と琵琶湖が見渡せ、西近江街道を抑える、更に北方の朽木街道にも睨みを利かせる事の出来る城跡だったことが想像出来ます。
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